「カチッ」と鳴るまで締める工具の話(2026.08)

避難器具の設置工事では、作業の最後に必ずと言っていいほど「カチッ」という音が聞こえてきます。緩降機や救助袋の取付具をアンカーボルトで固定する最終工程――そこで使われているのが「プリセット型トルクレンチ」という工具です。今回は、この「カチッ」の正体と、避難器具の世界でこの音がなぜ重要なのかをご紹介します。

プリセット型トルクレンチ

「カチッ」の正体――スプリングとカムの仕掛け

プリセット型トルクレンチの内部には、スプリングとカム(首折れ機構)が組み込まれています。グリップを回してトルク値を設定すると、内部のスプリングが押し縮められ、カムに一定の圧力がかかる仕組みです。

グリップ(トルク調整) スプリング カム(首折れ部) ソケット 「カチッ」 設定トルクでカムが倒れる瞬間
プリセット型トルクレンチの内部構造(スプリングとカムの模式図)

この状態でボルトを締めていくと、レンチのヘッド部にカムを傾けようとする力が加わっていきます。そして、その力がスプリングの圧力と釣り合った瞬間、カムが「カクン」と倒れ、あの「カチッ」という音と、手に伝わる軽いショックが発生します。これが、設定したトルク値に達したことを知らせるサインです。

なぜ「カチッ」が鳴ったら、そこで止める必要があるのか

「カチッ」と鳴った瞬間は、あくまでレンチが「設定トルクに達しました」と教えてくれる合図であり、そこでレンチが自動的に空転して締め付けが止まるわけではありません。合図が出た後も力をかけ続ければ、ボルトには設定値以上のトルクがかかり続けてしまいます。

特に注意したいのが、確認のつもりで同じボルトを何度も「カチカチッ」と締め直す動作です。1回目の「カチッ」はスプリングの初期圧力どおりの力でカムが倒れますが、2回目はすでにボルトに設定トルクがかかった状態からさらに力を加えることになるため、実際の締め付けトルクは1回目より大きくなります。3回、4回と繰り返せば、その分だけオーバートルクが積み重なっていきます。「カチッ」は一回――これがプリセット型トルクレンチを正しく使ううえでの基本です。

プレート形トルクレンチという選択肢

「カチッ」で知らせるプリセット型とは別に、現場では「プレート形トルクレンチ」(ビーム型とも呼ばれます)が使われることもあります。こちらはスプリングやカムのような内部機構を持たず、ハンドルに取り付けられた金属のアーム(プレート)が、締め付ける力に応じてごくわずかにたわむのを利用して、その先端の指針が目盛りの上を動く仕組みです。締め付けている最中のトルク値を、目盛りを直接見ながらそのまま読み取れるのが特徴です。

プレート形トルクレンチ本体
プレート形トルクレンチの目盛り部

内部に摩耗する部品がほとんどないため壊れにくく、価格も比較的手ごろで、検査用として広く使われています。目盛りは締め付け方向・戻し方向の両方に対応しているものが多く、増し締めの確認だけでなく、「今どれだけのトルクで保持されているか」を戻し方向にゆっくり回しながら確認する、いわゆる戻しトルク検査にも使えます。一方で、目盛りを正面から見ないと数値がずれて見えてしまうため、正確に読み取るにはある程度の慣れが必要です。

プリセット型が「一回のカチッで止める」という運用ルールを守れるかどうかに精度が左右されるのに対し、プレート形は目盛りさえ正しく読めれば、締め付け作業中でも、締め終わった後の確認でも、そのままの値を確認できます。避難器具の設置後の抜き取り検査や、既存物件の定期点検で「本当に規定トルクが保たれているか」を確認する際には、こちらのプレート形が向いていると言えるでしょう。

締めた後も油断できない――半年後に増し締めが必要になる理由

正しく「カチッ」と一回で締め終えたボルトも、それで永久に安心というわけではありません。設置時に規定トルクで締めたはずのステンレス製アンカーボルトが、半年後の点検で測り直すと既に緩んでいて、増し締めをしないと規定値に届かない――という状況が実際に起こります。同じ屋外環境でも、スチール製のアンカーではこうした緩みは目立ちにくいとされ、この違いには材質そのものの性質が関係しています。

手がかりは「線膨張係数」、つまり温度が変わったときにどれだけ伸び縮みするかという数値です。ステンレス(SUS304系)の線膨張係数はおよそ17.3×10⁻⁶/℃で、これは炭素鋼(スチール)のおよそ11.7×10⁻⁶/℃の1.5倍にあたります。一方、コンクリートの線膨張係数はおよそ10×10⁻⁶/℃で、炭素鋼の値にかなり近いのです。鉄筋コンクリート造で温度によるひび割れが起きにくいのは、鉄とコンクリートがほぼ同じペースで伸び縮みするためだと説明されています。

つまり、スチール製のアンカーはコンクリートとほぼ足並みを揃えて伸び縮みするのに対し、ステンレス製のアンカーだけがコンクリートより大きく、そして違うペースで伸び縮みしてしまうのです。緩降機や救助袋の内側にあるアンカーボルトは直射日光に炙られるわけではありませんが、それでも屋外である以上、冬の朝と夏の日中とでは20〜30℃程度の温度差を受けます。この程度の温度差でも、ステンレスとコンクリートの伸び縮みのズレが、アンカーの軸力を目に見えて低下させるだけの力を持つことが、簡単な計算からも見えてきます。半年という点検間隔は、ちょうどこの季節差をひとまたぎする期間でもあります。

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ステンレス鋼(SUS304系)の線膨張係数はおよそ17.3×10⁻⁶/℃、炭素鋼はおよそ11.7×10⁻⁶/℃、コンクリートはおよそ10×10⁻⁶/℃とされています。鉄筋コンクリート造で温度によるひび割れが起きにくいのは、鉄とコンクリートの線膨張係数が近いためです。

出典:ステンレス鋼(SUS304系)・炭素鋼・コンクリートの線膨張係数に関する各種技術資料

裏を返せば、この現象が起きるのは「ステンレス」と「コンクリート」という、伸び縮みのペースが大きく異なる異種材料同士を締結している箇所に限られます。たとえば避難器具用ハッチの場合、ハッチ本体は鉄筋を溶接してコンクリートに埋め込む形で固定されており、内部のはしごなどの取付部は、そのステンレス製の本体フレームに対してステンレスのボルト・ナットで締結されます。つまりここは「ステンレス×ステンレス」というほぼ同じ材質同士の締結であり、コンクリートとの膨張差という要因がそもそも働きません。同じ避難器具でも、コンクリートに直接アンカーボルトを打ち込む箇所と、金属部材同士をボルト留めする箇所とでは、温度変化に対する緩みやすさがまったく違う、ということになります。

だからこそ、避難器具の点検基準では、取付具のボルト・ナットの緩みが点検項目の一つとして明確に位置づけられています。設置した瞬間の「カチッ」がゴールなのではなく、特にステンレス製の取付具については、季節をまたいだ増し締め・点検を行って初めて、告示が求める強度が維持され続ける――というのが実際のところです。

避難器具の世界での締め付けトルクの重み

一般的な工具の話であれば「そこまで気にしなくても」という向きもあるかもしれません。しかし、避難器具の設置においては、締め付けトルクの管理は単なる作業手順ではなく、告示で定められた技術基準そのものに関わってきます。

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消防庁告示「避難器具の設置及び維持に関する技術上の基準の細目」では、固定部材にアンカーボルト等を使用する場合、そのアンカーボルトの引き抜きに対する耐力を、設計引抜荷重に相当する試験荷重を加えて確認することが定められています。この試験荷重を得るための締付トルクは、T=0.24DN(T:締付トルク キロニュートンセンチメートル、D:ボルト径 センチメートル、N:試験荷重=設計引抜荷重 キロニュートン)という式で求めることとされています。

出典:消防庁告示第二号「避難器具の設置及び維持に関する技術上の基準の細目」(平成八年四月十六日、改正含む)

つまり、避難器具の取付現場で聞こえる「カチッ」は、単に工具の使い方の話ではなく、この計算式に基づいて設定された値どおりに、緩降機や救助袋の取付具がビルの柱やはりに固定されていることを意味しています。締め過ぎても緩すぎても、いざという時にその避難器具が本来の強度を発揮できない可能性があるという点で、この「カチッ」一回の重みは決して小さくありません。

「カチッ」という音は、スプリングとカムという単純な機構が生み出す合図に過ぎませんが、避難器具の設置現場では、その一回の音が技術基準の計算式と直結しています。日々の施工の中で何気なく聞こえるあの音にも、少し違った重みを感じていただけるのではないでしょうか。